2023年9月公表のTNFD v1.0は、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標目標の四柱を基盤に、企業の自然資本への依存・影響を可視化・開示する国際枠組みです。LEAP手法により優先領域を特定しリスクと機会を財務的に評価・統合でき、段階適用とデータ品質向上を通じて資本市場での信頼獲得と新規ビジネス創出を加速させるフレームワークについて下記に解説します。

1. TNFDとは何か
TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)とは、企業や金融機関が自然資本や生物多様性に関するリスクと機会を適切に評価・開示するために設立された国際的なイニシアチブです。気候変動リスク開示の枠組みであるTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の「自然版」として2021年に始動し、2023年9月に最終フレームワークv1.0が公表されました。TNFDはTCFDと同様にガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標という4つの柱で開示項目を構成していますが、自然への「依存」と「影響」の評価も含めている点が特徴です。つまり、企業が自然から受けるリスク・機会だけでなく、企業活動が自然に与える影響や自然に依存する度合いまでを開示することを求めています。
設立の背景
設立の背景には生態系の劣化による経済への深刻なリスク認識があります。世界経済フォーラムの報告でも、人類活動により陸域の75%、海域の66%が深刻な影響を受け、100万種の生物が絶滅の危機に瀕すると警告されています。こうした状況を受け、「気候変動対策だけでは不十分」であり自然そのものの損失に対処する必要性が高まりました。そこで自然関連リスクの開示と対策を促すためにTNFDが立ち上げられたのです。TNFDの目的は、企業の意思決定に自然資本の視点を組み込み、自然に対してネガティブな金融フローをポジティブへ転換することにあります。実際、TNFDには金融機関・企業・政府など世界で数百の組織が参加し、ベータ版の検討を経てフレームワークが策定されました。
グローバルな動向
2023年9月には、気候関連情報開示で有名なCDPがTNFDフレームワークとの連携を発表し、企業への質問項目にTNFDの要素を統合する計画を示しました。またTNFDは自主的参加企業TNFD Adopterとして公開しており、2024年12月時点で世界で517社(日本企業は135社で国別最多)がTNFDに沿った開示に取り組む意向を表明しています。日本でも三菱UFJフィナンシャル・グループなど大手企業がパイロットプロジェクトに参加し始めており、政府も後述のとおり企業によるTNFD開示を後押ししています。こうした世界的潮流から、TNFDは気候分野のTCFDと並んで非財務情報開示の新たなスタンダードになりつつあります。

2. LEAP手法の概要と実務への適用
TNFDフレームワークの中核にあるのが、LEAP手法(Locate, Evaluate, Assess, Prepareの頭文字)と呼ばれる統合的な評価プロセスです。LEAP手法は企業が自然関連リスク・機会を管理するための実践的ステップを提供しており、情報開示に欠かせないアプローチと位置付けられています。本格的に分析を行う前にスコーピング(評価範囲の設定)を行い、対象と目的を明確化した上で次の4段階を踏みます。
Locate(発見)
自社のバリューチェーンや事業領域における自然との接点を特定します。具体的には、事業活動が影響を与えうる、または依存している生物多様性重要地域(優先地域)を見つけ出す段階です。例えば工場やプラントの立地が貴重な生態系に近接していないか、原材料の調達先で生態系サービス(淡水や土壌など)に依存していないかを洗い出します。業種・バリューチェーン・地理的範囲といったフィルターを用いて、まずリスク・機会評価の対象領域を絞り込むことが重要です。
Evaluate(診断)
次に、特定した領域で自社が自然に与えている影響と、自社が自然から受けている依存関係を評価します。たとえば事業活動での土地利用や資源消費が生態系にどう影響しているか、また製品生産に必要な水供給や気候安定といったサービスにどれだけ依存しているかを定量・定性的に診断します。このステップにより、企業と自然の相互関係(インターフェイス)を把握します。
Assess(評価)
続いて、Evaluateで洗い出した依存・影響に基づき、企業にとってのリスクと機会を特定・評価します。自然関連リスクには、例えば生物多様性の損失による原材料調達リスクや、水資源不足による操業リスク、規制強化に伴うコンプライアンスリスク等が含まれます。一方、自然関連機会としては、生態系保全ビジネスへの参入やリジェネラティブ農業によるブランド価値向上などが挙げられます。このステップでは、リスク・機会の重大度や発生可能性を評価し、経営への影響度合いを分析します。
Prepare(準備)
最後に、これまでのステップで特定した依存・影響・リスク・機会への対応策を検討し、情報開示や経営戦略に反映する準備を行います。具体的には、リスク軽減策や機会追求のアクションプランを策定し、目標(例:生物多様性保全目標や自然資本増価目標)とKPIを設定します。同時に、得られた知見を企業のガバナンスや既存のリスク管理プロセスに組み込み、開示すべき情報を整理・文書化します。Prepare段階を経て、初めて社内外向けの自然関連財務情報の開示準備が整います。
以上がLEAPの4ステップですが、重要なのはスコープ設定と段階的な適用です。TNFDでは、一度に企業全体を評価しようとするのではなく、まず重要領域から着手し徐々に範囲を拡大することが推奨されています。例えば自社にとって自然リスクが高い事業や地域から優先的にLEAPを適用し、得られた知見をもとに順次他の領域へ広げていくアプローチです。これにより、限られたリソースでも効果的に評価を進めることができます。
実務でのLEAP活用例
例えば、日本の総合商社である三井物産は自社保有林である「三井物産の森」(北海道石井山林)を対象に、LEAP手法による自然関連課題の分析を実施しました。その結果、自社の森林管理による生態系サービス提供などポジティブなインパクトを定量的に把握し、今後の森づくり戦略に活かすことができたと報告されています。このようにLEAP手法は、企業が自社の自然資本への影響・依存を「見える化」し、戦略策定やステークホルダー説明に役立てる実践的ツールとして活用され始めています。
https://www.mitsui.com/jp/ja/sustainability/environment/natural_capital/biodiversity/leap/index.html

3. TNFDが企業経営に与える影響
TNFDへの対応は、企業のリスク管理や戦略策定に新たな視点をもたらします。
財務・非財務リスクの評価への影響
企業活動と自然との関係を洗い出すことで、従来見過ごされがちだったサプライチェーン上の生態系サービス喪失リスクや、気候変動以外の環境規制リスクなど潜在的なリスク要因を顕在化できます。例えば、水源となる森林の劣化は事業継続リスクになり得ますし、生物多様性ロスに対する社会の関心増大は企業のレピュテーショナルリスクを高める可能性があります。TNFDの枠組みに沿って自然関連リスクを定量評価することは、企業のERM(全社的リスク管理)を強化し、事業戦略のレジリエンスを高める効果があります。またリスク評価だけでなく、自然との関わりから生まれるビジネス機会にも目を向けることで、サステナブル製品やグリーンファイナンスなど新たな市場機会を捉えるきっかけにもなります。
ステークホルダーへの情報開示の重要性
TNFDに沿った開示は、投資家・金融機関をはじめとするステークホルダーからの評価に直結します。近年、ESG投資の潮流により財務情報だけでなく環境への配慮を重視する機関投資家が増えています。実際、日本でもGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が2015年にPRI署名して以降ESG投資が拡大し、企業の環境対応が資本市場で注目されています。そのような中、自然関連情報の開示に取り組むこと自体が企業の社会的信用を高めると期待されます。自社がどのような自然資源に依存し、どんな対策を講じているかを透明性高く示すことで、「持続可能な企業」であることを対外的にアピールできます。これはレピュテーション向上につながり、ひいてはブランド価値の向上や優秀な人材確保にも寄与し得ます。
投資家・金融機関へのアピール
自然関連リスクへの対応度合いは、今後金融機関の融資判断や保険引受にも影響を与える可能性があります。実際、欧州の一部金融機関では融資先企業に対し生物多様性リスクの情報提供を求める動きが出ています。TNFD開示に前向きな企業は、そうした新たな資金ニーズに適合し、資金調達コストの低減や投資機会の拡大といったメリットを得られるでしょう。このようにTNFDは単なる報告負担ではなく、企業価値向上や関係者との信頼構築の機会として捉えることが重要です。

4. 実務でのTNFD導入プロセス
実際に企業がTNFDに沿った情報開示を進めるには、段階的なアプローチで社内体制を整備することが重要です。以下に企業が取り組むべきプロセスの一例を示します。
社内体制の構築と認識共有
まず経営陣のコミットメントを得て、サステナビリティ担当やリスク管理部門を中心に横断的なプロジェクトチームを立ち上げます。TNFDの趣旨や枠組みについて社内教育を行い、関係部門(環境管理、調達、生産、財務など)で問題意識を共有します。トップの理解と支援を取り付け、必要に応じて外部専門家の助言を得る体制を整えます。
スコーピング(評価範囲の設定)と現状評価
自社の事業全体を見渡し、まず優先的に評価すべき領域を特定します。具体的には、事業セグメントやサプライチェーンの中で自然関連リスクが高いと思われる分野や、重要な自然資本への依存度が大きい分野を洗い出します。例えば原材料が森林や水源に依存する事業や、生態系に大きな影響を及ぼしかねない生産拠点などが該当します。それらの領域について、既存データや公開情報を収集して現状の依存・影響関係を概観し、ギャップ分析を実施します。これにより、どの部分に注力すべきか優先順位付けが明確になります。
LEAP手法による詳細分析
スコーピングで選定した優先領域について、前述のLEAPアプローチを適用し詳細な分析を行います。社内の関連部署やサプライヤーから必要なデータを集め、専門ツールや外部データベース(例えば生物多様性インデックスや水リスクマップなど)も活用しながら、依存関係・影響度合いを定量化します。分析過程では部門横断の議論を重ね、評価結果の妥当性を確認します。必要に応じて不確実性の高い要素についてシナリオ分析を行い、将来のリスク変動も考慮します。この段階で浮き彫りになったリスク・機会は、企業のリスクマップやSWOT分析に組み込まれます。
戦略・対策の策定と組織への統合
LEAP分析の結果を踏まえ、特定された自然関連リスクへの対応策および機会の活用戦略を策定します。例えば、主要なリスクに対しては代替原料の検討やサプライヤーとの協働による生態系保全策など具体策を立案します。これらの方策を企業の既存のリスク管理プロセスや事業計画に統合し、経営戦略の一部として位置付けます。また、必要に応じてガバナンス体制も整備します(取締役会レベルでの監督責任明確化や、専門委員会の設置など)。この段階では社内規程や手順書の改定、従業員教育などを通じ、自然関連リスク管理が日常業務に組み込まれるようにします。
情報開示とモニタリングの実施
準備が整ったら、TCFD同様に年次報告書やサステナビリティレポートでの開示を行います。ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標の各項目について、TNFD提言に沿った情報を整理し開示します。例えば、「自然関連の依存・影響・リスク・機会」を定性的・定量的に記述し、対応するKPIや目標値を開示します。開示後も定期的にモニタリングを続け、PDCAサイクルを回しながら対応を継続改善します。業界動向や規制の変化に応じて開示内容をアップデートし、ステークホルダーからのフィードバックも戦略見直しに反映させます。
以上のようなプロセスを経ることで、企業は自社に適合したTNFD対応フレームワークを構築できます。特に初期段階では無理に広範囲を網羅しようとせず、焦点を絞って深く分析する方が効果的です。分析結果はサステナビリティ戦略のみならず、事業戦略や財務計画にも組み込むことで初めて価値を発揮します。また、一度構築した枠組みは終わりではなく、毎年の事業計画サイクルに組み入れて継続的にブラッシュアップしていくことが重要です。

5. TNFD導入の課題と今後の展望
TNFDを実務で導入する際には、いくつかの課題が指摘されています。
データと指標の不足
気候変動分野ではCO₂排出量など比較的整備された指標がありましたが、生物多様性や自然資本の分野では統一的な指標やデータベースがまだ十分ではありません。企業が自ら生態系データを収集するには専門知識が必要であり、サプライチェーン全体の自然関連情報を把握するのは容易ではありません。この課題に対し、TNFDでは各業界や生態系(バイオーム)ごとのガイダンスや指標カタログを提供し始めています。企業側でも、大学・NGO・コンサル等と連携して生物多様性のモニタリングを行ったり、既存の自然資本評価ツール(例えばNatural Capital Protocolなど)を活用したりする動きが出ています。今後、データ標準化が進むにつれ分析の精度は向上していくでしょう。
社内の専門知識・リテラシー不足
自然関連リスクは従来の企業経営では馴染みが薄く、担当者の知見が限られる場合があります。これに対し、社内研修の実施や専門人材の採用・育成が求められます。また、部門横断の協働が必要になるため、社内調整コストも課題となります。この点はトップマネジメントの理解と後押しが重要であり、経営層に対してはTNFD対応が企業価値やレピュテーションに与えるインパクトを定量的に示すことで支援を得やすくなります。さらに、すでにTCFD対応を行っている企業であれば、その延長線上で統合的リスク管理として位置付けることで社内の抵抗感を下げる工夫も有効です。
対応コスト
評価プロジェクトの遂行やコンサルタントの活用、データ整備にはコストがかかります。しかし中長期的に見れば、自然関連リスクへの無対応が引き起こす潜在的損失(例えば災害による損害や資金調達難)を回避できる点で投資対効果は高いと考えられます。実際、国際的な動向として自然関連情報開示を政策的に促進する流れが強まっており、対応コストは将来的なコンプライアンスコストの先取りとも言えます。日本政府も2023年に「ネイチャーポジティブ経済の実現」を戦略目標に掲げ、企業による生物多様性依存度・影響の評価と情報開示の推進を打ち出しました。このような支援策や補助金の活用もコスト面の課題を緩和するでしょう。
6. 今後の展望
TNFDを取り巻く今後の展望として、大きく4つが挙げられます。
国際標準化と規制化の動き
前述のとおり、既にCDPはTNFDと整合した情報開示を企業に求める方向に進んでいます。さらに2022年末の生物多様性COP15では2030年までに企業が自らの自然への依存・影響を把握・開示するという国際目標が掲げられました。欧州連合(EU)もCSRD(企業サステナビリティ報告指令)に基づき生物多様性に関する開示基準を策定中で、TNFDとの整合性が図られる見込みです。こうした流れから、気候に続き自然関連情報の開示が各国で義務化されていく可能性が高まっています。実際、日本でも東京証券取引所プライム市場ではTCFD開示が実質義務化されましたが、その延長線上でTNFD開示の義務化が検討される可能性があります。
企業価値評価への影響拡大
金融市場においては、気候変動に加えて自然資本がポートフォリオに与える影響を考慮する動きが広がっています。格付機関や投資リサーチ会社が企業の生物多様性リスク対応度をスコア化し始めており、TNFD対応が評価項目に組み込まれる可能性があります。これにより、TNFDに積極的な企業は資本市場で有利に評価される一方、対応が遅れた企業は投資家から敬遠されるリスクもあります。言い換えれば、TNFD対応は競争優位性の一要素となりつつあるのです。早期に取組を開始した企業は、社会的評価や投資家評価の面で先行者利益を得られるでしょう。
企業間のコラボレーションとイノベーションの加速
複数企業が連携して生態系保全プロジェクトを立ち上げたり、業界横断の情報共有プラットフォームを構築したりといった動きが見られます。TNFD自体も「知見の共有コミュニティ」を形成しており、ベストプラクティスやデータを共有することで全体の底上げを図っています。技術面でもリモートセンシングやAIを活用した生物多様性モニタリング手法の発展が進み、より精緻で安価なリスク評価が可能になるでしょう。こうしたイノベーションは企業の負担を下げると同時に、新たなビジネスチャンス(環境データサービス市場など)を生むと期待されます。
以上のように、TNFDは企業経営において避けて通れないテーマとなりつつあります。課題はあるものの、それを乗り越える支援策や技術革新も進んでおり、「自然関連情報開示」は今後のサステナビリティ経営の鍵となるでしょう。自社の持続可能性と競争力を高めるためにも、早い段階からTNFDへの実務対応を進めていくことが重要です。
引用元
環境省「自然関連財務情報開示 タスクフォースの提言」
https://tnfd.global/wp-content/uploads/2024/02/自然関連財務情報開示-タスクフォースの提言_2023.pdf
環境省「TNFD v1.0の概要紹介」
https://www.env.go.jp/content/000174924.pdf
