2023 年の最終勧告公表を機に、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)への対応は「いつかやる」から「今すぐ着手すべき」経営課題へと一気に格上げされました。しかし、実務の第一歩として何から手を付け、どのように社内に根づかせ、数年かけて開示精度を高めていくか -その道筋はまだ明確ではありません。本記事では 初年度に取り組むべき社内体制づくり・リスクスクリーニング・データ収集の進め方 から始まり、2~3年目以降のロードマップ(評価範囲の拡大、戦略統合、KPI設定)、さらに 企業が陥りやすいハードルと解決策、中長期の展望と継続的ガイドライン までを体系的に解説します。先行企業の実践例や最新ガイダンスも交えながら、「手探り感」を最小化しつつ自然関連リスクをチャンスへ転換するための具体的ステップを示します。

1. 初年度にやるべきこと(社内体制の構築、リスクスクリーニング、データ収集)
TNFD対応を開始する初年度は、基礎固めと現状把握に焦点を当てることが重要です。具体的には以下のステップが推奨されます。
社内ガバナンス体制の構築
まず経営陣によるコミットメントを明確にし、TNFD対応プロジェクトを発足させます。経営トップから「自然関連リスクへの対応を経営課題とする」旨のメッセージを発信し、関連部署を横断するワーキンググループや委員会を設置します。ここでは環境担当、リスク管理担当、財務・IR担当、事業部門代表などをメンバーに含め、必要に応じて役員クラスがチェアとなって進捗を統括します。組織横断で取り組むことで、各部署に散在する情報を集約しやすくなるとともに、社内意識の統一が図られます。併せて取締役会の下に定期報告ラインを設けるなど、ボードレベルでの監督体制も明確にしておくとよいでしょう。
従業員教育・意識啓発
初期段階で重要なのは社内の知見向上です。TNFDや自然資本に関する基礎知識を共有するため、専門家を招いたセミナーやeラーニング、内部勉強会を開催します。各部署のキーパーソンに対して重点的なトレーニングを実施し、なぜこの取り組みが必要なのか、専門用語の意味、他社動向などを学んでもらいます。他社事例や金融業界の動きなど幅広いトピックを取り上げることで、視野を広げ危機感とモチベーションを醸成します。教育を通じて「自然関連リスク=自社の問題」という意識を従業員一人ひとりに持たせることが肝要です。
スコーピング
LEAP手法で言うステップ1に相当しますが、初年度は可能な限り自社の事業全般を俯瞰した粗描のスコーピングを行います。具体的には、自社の主要事業や製品ごとに「どのような自然資本に依存しているか」「どのような生態系に影響を及ぼし得るか」をブレインストーミングや定性的調査で洗い出します。各事業部や工場、調達部門にアンケートやヒアリングを実施し、気候以外の環境リスクとして認識している事項を吸い上げます。例えば「〇〇工場では近年用水確保が課題になっている」「原料の主要調達先で森林減少に関する苦情が出ている」といった情報です。あわせて公開情報や政府データを用いて自社拠点・調達先の立地する地域の生態系状況(絶滅危惧種の有無、水ストレスレベルなど)を調べます。これにより、自社にとってリスクになりうる自然関連要素の全体像を把握します。この全社スキャンの結果から、**特にリスクが高そうな領域(事業×地域)**を優先順位付けし、以降の詳細評価対象を絞り込みます。初年度は無理に詳細分析を全範囲で行おうとせず、重要箇所のあたりを付けることが目的です。
データ収集とベースライン把握
選定した優先領域について、利用可能なデータを収集します。例えば、水リスクが高い事業拠点ならその拠点の年間取水量や水源の種類、現地の降水量データなどを集めます。生物多様性への影響が懸念されるサプライチェーンについては、仕入先企業に協力を仰ぎ、土地利用面積や認証取得状況などを提供してもらいます。社内に散在する環境関連データ(環境アセスメント結果、ISO14001の環境側面リスト等)も活用しましょう。こうしたデータを整理し、現在の自社の自然資本フットプリント(どれだけの資源を使い、どれだけの環境負荷を出しているか)のベースラインを把握します。定量データが難しい項目は定性評価や専門家の意見で補完し、情報ギャップはどこにあるかを記録しておきます。初年度末までに、選定したリスク領域について「現状の姿」と「潜在的な問題点」を経営層に報告できるレベルのインプットを揃えることが目標です。
短期アクションの実施
評価と並行して、すぐに実行可能な対策は初年度から着手します。例えば「データ整備が不十分」という課題が出たら環境パフォーマンスデータ管理システムを導入する、「特定工場で水リスクが高い」と分かったら代替水源の検討を始める、などです。これら短期で成果が出る施策に取り組むことで社内の推進力を維持し、次年度以降の本格対応に備えます。
初年度は手探りとなる部分も多いですが、上記のような基礎固めを通じて「自社のどこに自然関連リスク・機会が潜んでいるか」の概観を掴むことができます。重要なのは、完璧を期すあまり分析を遅らせないことです。「まず全体像を把握し、改善は次年度以降」と割り切って進める柔軟さが求められます。
2. 次年度以降のTNFD対応計画(開示精度向上、戦略統合、KPI設定)
初年度で土台を築いた後、次年度以降は分析の深化と組織への定着を図ります。ロードマップの例として、2年目から3年目以降にかけて以下のような発展的取り組みを計画します。
評価範囲・精度の拡大
初年度に絞り込んだ重点領域以外にも範囲を広げ、全社的なリスク評価を網羅性高くしていきます。例えば2年目には残りの主要事業や追加のサプライヤーも評価対象に加え、3年目には関連子会社や海外拠点まで範囲を拡大するといった具合です。また、初年度に定性的だった分析項目について新たなデータを収集し定量化を進めます。必要に応じてIoTやリモートセンシングを活用して環境データを取得したり、パイロットプロジェクトで詳細な生態調査を実施してデータ精度を上げます。年を追うごとに、評価のカバレッジ(対象範囲)とディープさ(詳細度)を向上させ、開示内容の網羅性・信頼性を高めていきます。
戦略・目標の統合
2年目以降は、自然関連リスク対応を経営戦略や中期計画に統合する段階に入ります。例えば、新規事業の立ち上げや設備投資判断において、生物多様性や自然資本の視点での評価プロセスを正式に組み入れます。意思決定フローに「自然関連影響評価」のチェック項目を追加する、といった具体的方法です。また、企業の長期ビジョンに「自然ポジティブ(環境に対して純プラスの状態)を目指す」旨を盛り込み、社内外にコミットメントを示します。さらに、KPI(重要業績評価指標)を設定しモニタリングを開始します。例えば「2030年までに主要事業の生物多様性フットプリントを20%削減」といった定量目標を掲げ、進捗を年度ごとに測定します。KPIはTNFD勧告で提案されているグローバル指標や、自社独自の指標を組み合わせ、経営層の評価指標や従業員のインセンティブにも組み入れることで実効性を持たせます。戦略統合が進めば、自然関連リスク対応はもはやCSR部門だけの仕事ではなくなり、企業戦略の一部として社内プロセスに溶け込むようになります。
ステークホルダーエンゲージメント
取り組みが高度化する2年目以降は、社外ステークホルダーとの対話も重視します。投資家との対話ではTNFD開示内容についてフィードバックを求め、期待事項を把握します。また、サプライヤーや顧客とも協調し、バリューチェーン全体での自然リスク低減策を検討します。例えば重要仕入先と協働で生態系保全プロジェクトを始めたり、業界団体でガイドライン策定に参加することも考えられます。社外との連携を深めることで情報やベストプラクティスを共有し、自社対応の質をさらに高められます。こうしたエンゲージメントの成果も開示に反映させ、自社の対応が社会全体の流れと整合していることを示すと良いでしょう。
継続的改善と報告の高度化
3年目以降は、これまでのPDCAを通じて見えてきた課題を潰し込み、成熟度を上げていく段階です。例えばデータ管理の自動化・システム化、社内専門家の育成、役員報酬へのESG目標組み込みなど、内部体制を持続可能な形に洗練させます。またTNFD自体も国際的なフィードバックを受けて進化していくため、最新のガイダンスやツールに適宜アップデートします。開示報告書も年々充実させ、グラフやシナリオ分析結果の掲載、統合報告書との統合度向上など読者にとって有用性の高い情報提供を追求します。将来的にISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が生物多様性に関する開示基準を策定した際には、速やかに適合できるようTNFDからの移行も視野に入れて準備を進めます。このようにロードマップを描き段階的に深化させていけば、数年のうちに自社の自然関連開示とリスク管理は競合他社に負けない先進的な水準に到達するでしょう。
3. 企業が克服すべきハードルとその解決策
TNFD導入を進める中で企業が直面するハードルはいくつかありますが、それぞれに適切な解決策があります。
短期業績との両立
自然関連リスク対応は中長期的な価値保全策であり、短期の利益貢献が見えにくいことから、社内で投資対効果を問われる場合があります。これに対しては、自然リスク放置による将来損失の顕在化をシナリオで示し、先行投資の正当性を示します。また省エネや資源効率向上など短期にも利益をもたらす共益策を優先実施し、コスト削減効果を出すことで社内支持を得る工夫も考えられます。
業界ベンチマークの不足
新分野ゆえに「他社がどの程度やっているのか分からない」という声もあります。これについては、業界団体やマルチステークホルダーのプラットフォームに参加し情報交換することが有効です。他社事例から学ぶことで、自社の取組み水準を客観視でき、足りない点や優れている点が見えてきます。TNFDフォーラムや各国の生物多様性イニシアチブ(例えば経団連自然保護協議会など)に参加し積極的に情報収集・発信を行うとよいでしょう。
消費者や取引先の理解
自然関連の取組みは企業内だけでなく、商品・サービスを通じて社会にも影響します。例えば持続可能な原料への切替は製品価格に影響するかもしれません。こうした場合、消費者や取引先に対して取組みの意義を丁寧に説明し、理解と協力を得る努力が必要です。エコラベルの取得やサステナビリティレポートでの情報提供、説明会開催などを通じて、自社の姿勢に共感を広げることで市場の支持を得られます。結果的にこれはブランド価値向上につながり、長期的な競争力ともなります。
制度変更への対応
今後、生物多様性の開示義務化など制度環境が変化する可能性があります。そうした際に迅速に対応できるよう、最新の政策動向をウォッチし、シナリオを準備しておくことが重要です。例えばEUの動きや国内法整備の議論を注視し、義務化された場合の追加コストや開示項目を予測しておきます。もっとも、TNFDに沿った開示を自主的に進めていれば、仮に規制化されても大半は既存対応でカバーできるはずです。むしろ先行対応によりレピュテーションメリットや政策対応コスト低減が期待できるでしょう。
企業は以上のようなハードルを認識しつつ、リスクではなく機会に目を向けて前向きに取り組む姿勢が大切です。自然関連リスク対応は単なる守りではなく、新たな市場やイノベーションを生む源泉ともなり得ます。たとえば生態系の保全技術や自然由来原料の開発は将来の主力事業になるかもしれません。各社が創意工夫を凝らし、自社ならではの強みと結び付けて戦略化することで、TNFD対応は企業価値の向上と持続可能な社会の実現を両立する鍵となるでしょう。
4. 中長期の展望と継続的なTNFD対応ガイドライン
最後に、TNFD対応の中長期的な展望について触れます。2020年代後半から2030年にかけて、自然関連リスク開示と対策はさらに重要度を増すと予想されます。2022年の生物多様性COP15で合意されたグローバル目標(昆明・モントリオール枠組み)では、2030年までに企業が自らの自然への依存と影響を把握・公表することが盛り込まれました。これは各国での規制強化や市場圧力となって具体化していくでしょう。従って、今後5年〜10年の間にTNFDに代表される自然関連開示は現在の気候関連開示と同等かそれ以上に一般化すると見られます。企業にとっては、先手を打って体制と実力を養っておくことが競争優位となります。
また、気候変動対策との相乗効果も中長期のテーマです。気候と自然は相互に関連するため、統合的なリスクマネジメントが求められます。将来的には、企業報告も「気候・自然複合リスク報告」という形で包括的に行われる可能性があります。その意味で、TNFDで培った知見は気候戦略の強化にも寄与します。例えば、植林や自然生態系の再生はカーボンオフセットと生物多様性保全の両方の効果を持ち、投資効率の高い施策となり得ます。企業は気候変動対策・脱炭素経営と自然ポジティブ経営を一体的に推進し、統合報告の中でも両者を関連付けて説明することが重要になるでしょう。
継続的なTNFD対応のためのガイドラインとしては、次のポイントが挙げられます。
定期的な見直しとアップデート
毎年、TNFDのガイダンスや業界のベストプラクティスを確認し、自社の手法や開示項目をアップデートする。新しい科学的知見やツールも積極的に採用していく(例えば生物多様性の経済価値評価モデルなど)。
社内能力の蓄積
継続対応には社内に専門性を根付かせる必要がある。社員の研修計画や専門人材の採用計画を立て、社内でデータ解析や生態系に詳しい人材育成を進める。将来的には**「ネイチャー・オフィサー」的な役割**を担う人材を幹部に配置することも考える。
長期目標の設定
2030年や2050年といった長期の区切りに向け、自然関連のビジョンや数値目標を掲げる。例:「2030年までに事業活動によるネット生物多様性ゲイン(純改善)を達成する」。長期目標があることで社内外のブレないコミットメントとなる。
外部検証と信頼性向上
開示情報に第三者検証を受ける仕組みを導入し、信頼性を高める。監査法人や専門機関による保証を付与することで、投資家にも安心感を提供する。将来的に報告義務化された場合にもスムーズに移行できるよう、監査対応も訓練しておく。
ポジティブストーリーの発信
継続対応の中で得られた成果(例えば生態系保全プロジェクトで○haの森林再生達成など)は積極的に社内外に共有し、モチベーションとレピュテーションを向上させる。**「自然に配慮する企業=将来を見据えた優良企業」**という評価を社会に定着させる一翼を担う意識で情報発信する。
以上のガイドラインを踏まえ、企業はTNFD対応を単発のプロジェクトで終わらせず継続的な経営課題として位置付けることが大切です。TNFD自体も「生きたフレームワーク」として進化し続けることを謳っています。企業の取り組みも絶えず進化させ、環境変化や社会要請に適応し続けることが求められます。その先にあるのは、企業が自然と調和しつつ繁栄できる真の持続可能な経営モデルの実現です。自然関連リスクへの対応はリスク管理であると同時に未来への投資でもあります。TNFDはその道筋を示す羅針盤と言え、ここで示された実務ガイドとロードマップを活用して、企業は持続可能な社会とビジネスの両立に向けた歩みを着実に進めていくことが期待されます。
引用
環境省「TCFDを活用した経営戦略立案のススメ」
https://www.env.go.jp/content/000120595.pdf
環境省「シナリオ分析の実施ステップと最新事例」
https://www.env.go.jp/content/000118050.pdf
