本記事では、GX‑ETSの排出枠無償配分に用いられる「ベンチマーク方式」と「グランドファザリング方式」を取り上げ、両方式の仕組み、利点・課題、公平性、企業負担への影響、過渡期措置としての活用までをEU‑ETSやカリフォルニア等の事例とともに整理し、制度選択の実務指針を示します。両制度の比較を通じて、効率的企業を優遇する設計原理と、歴史排出に依存した配分の課題を明確化し、フェーズ移行時の留意点を提示します。
※令和7年7月2日に経済産業省 GXグループにて発表された「排出量取引制度の詳細設計に向けた検討方針」を反映した内容は下記記事となります。



1. ベンチマーク方式の制度的役割
ベンチマーク方式とは、業種や製造工程ごとに「製品1単位あたりに排出すべき標準的なCO₂量(排出原単位)」を定め、企業の生産量や活動量に応じて排出枠を配分する仕組みである。日本のGX-ETS(GXリーグ制度)でも、高炉製鉄やセメントなど多排出分野では企業の活動量に対し産業別のベンチマークを乗じて排出枠を決定するとされており、対象企業の2023~2025年度平均活動量×ベンチマーク値で配分量を算出する方式が検討されている。このようにベンチマーク方式は、生産量などの「アウトプット」を基に無償配分量を決めるため、企業の排出量削減インセンティブを直接的に組み込みやすい制度設計となっている。
欧州連合(EU-ETS)
2021年以降の第4期において産業部門への無償配分の大半をベンチマーク方式に基づいて行っている。EU委員会によれば、対象産業ごとに排出強度が特に低い上位10%の設備(最も効率的な企業)をベースに製品単位当たりの平均排出強度を算出し、これをベンチマーク値として無償配分に用いている。この「プロダクト・ベース」の方式により、技術や燃料が異なる企業間でも同一製品では同じ基準で配分が決まり、同じ土俵で競う環境づくりに貢献している。カリフォルニア州のキャップ&トレード制度でも、産業施設向けには製品別に排出量原単位を定めるベンチマーク(出力ベース配分)方式を採用し、98%以上の産業配分が製品ベースで行われている。すなわち、世界の主な排出量取引制度では、いずれも先進国・新興国を問わず、高排出業種の配分にはベンチマーク方式が重視されている。
2. 利点
ベンチマーク方式の最大の利点は、企業の過去実績ではなく生産量に比例して排出枠を配分することで、早期削減や効率的な生産に取り組んだ企業をより手厚く評価できる点である。ICAPの分析によれば、ベンチマーク方式は「各社の歴史的排出量との結びつきを排除し、省エネ効率の高い企業や早期に低炭素化を進めた企業を報いる」効果があるとされる。実際、EU-ETSではベンチマーク値以下の排出効率を達成した設備には必要排出量相当の配分が完全に与えられる一方、効率の悪い設備は不足分を市場で調達しなければならない仕組みになっており、効率向上を促す明確なシグナルになっている。
カリフォルニア州
カリフォルニア州でも出力(製品量)に応じて配分が変動するため、企業が新技術や設備更新で生産当たりの排出量を低減すると、相対的に余剰枠を得られる誘因になる。特に日本のベンチマーク案では高排出分野の規制対象企業に無償配分枠を与える際、2023~25年度の平均活動量をベースにベンチマークを適用する予定であり、需要増加や生産増に合わせた配分が可能となる。
国際性
さらに、ベンチマーク方式は国際的に共通ルールとして設定されるため、国境を超えた競争条件の一貫性にも寄与する。多国間で同種製品のベンチマーク値を共有することで、グローバルサプライチェーン上で排出効率の低い競合国企業との差別化が可能となり、炭素リーケージ(低炭素規制の回避行動)の抑制にもつながりやすい。国際協調の観点から見ても、産業部門における「製品あたりの排出強度」を共通指標とするベンチマーク方式は、公平性の高い配分ルールとして評価されている。
3. 課題
一方で、ベンチマーク方式には設計・運用の面で多くの課題がある。最大の課題は「データ量と設計の複雑さ」である。製品ごとの排出量原単位を設定するには、同種製品の生産プロセスやエネルギー効率に関する詳細なデータが必要となる。ICAPの報告書でも指摘されているように、異なる技術や燃料が混在する場合に統一的な基準を設定するのは困難であり、規制当局は各業界の技術水準を十分に把握しなければならない。特に多品目製品の場合、どの製品の排出量を基準にするか、エネルギー副産物の扱いはどうするかなど複雑な判断が必要であり、ベンチマーク値の策定には長期間の検討が必要となることが知られる。さらに、ベンチマーク値は時間経過とともに段階的に厳格化(削減率を引き上げ)されるため、技術革新の進展を正確に反映させなければ不適切な目標設定となる恐れがある。EU-ETSではベンチマーク値を随時更新しているが、その作業負担は大きい。
組織事情
加えて、ベンチマーク方式は企業ごとの組織事情を反映しにくい面もある。設備投資の規模や運転年数、排出原単位が高い下位企業(効率が悪い企業)は、そもそも配分から取り残されやすい。一部には、「ベンチマークが厳しすぎる場合、目標達成が困難になる企業が続出する」といった意見もある。制度の運用次第では、同一製品内で企業間の配分競争が過熱し、かえって企業間摩擦が高まるリスクが指摘されている。また、複雑なベンチマークの算定や改定プロセスは、企業にとって将来の配分量が見えにくくなるデメリットともなる。
4. 企業への影響
カリフォルニアでは、産業企業には各製品の生産量に応じてベンチマーク値を掛け算した無償配分がなされる仕組みであり、製造量が増えれば配分量も増加する(ただし総枠には上限がある)。カリフォルニアでは98%以上の産業配分が製品ベースで算定されており、高効率企業ほど自社排出をカバーする無償枠が手当てされる設計だ。日本でもベンチマークが導入されれば、例えば鉄鋼や化学など重厚長大産業のうち、技術開発で排出原単位を低減した企業や製品規模を維持しつつ効率を上げた企業は、他社より有利な扱いを受ける可能性が高い。一方、同じ製品をつくる複数企業が存在する場合、装置や操業年数の差異による効率差はベンチマークだけでは反映されないため、低効率な企業ほど追加コスト負担(別途購入や投資)が生じやすい。
新規参入企業への柔軟性
また、ベンチマーク方式では企業の生産変動が配分に直結するため、事業拡大や新規参入企業にも柔軟に配慮がなされる。新規に生産量を増やせばその量に見合う枠が与えられるため、ゼロから始める新事業者でも一定の無償枠を見込める点は企業にとって魅力的である。しかし反面、生産縮小や市場縮退を余儀なくされた企業は配分が減少するリスクもある。全体として企業の事業戦略や生産量計画が配分量に直接影響するため、事業拡大への慎重さと同時に生産性の改善努力が求められる制度と言える。
5. 制度設計における公平性
ベンチマーク方式は、同一製品においては企業間で平準的な配分基準を共有できる点で公平性が高いとされる。一律のベンチマーク値を用いることで、設備規模や技術選択の違いによらず同レベルの排出効率を達成した企業は同じ割合の無償配分を得るため、競争条件の均一化につながるからである。例えば、上記のように性能上位10%を基準にしたEU方式では、達成できれば全量カバーされる仕組みのため、各社の取り組み努力が正当に反映される。一方で、歴史的な排出実績ではなく目標値による配分のため、これまで多く削減努力をしてきた企業が実配分で相対的に恩恵を受けにくいケースもある点には留意が必要である。
グランドファザリングとの対称性
対照的に、従来のグランドファザリング方式は「歴史的排出実績に応じた配分」を行う仕組みであり、高排出企業が多くの枠を受け取れる傾向がある。このため、新規参入や早期削減を進めた企業は相対的に不利になり、長期的な観点で公平性に疑問が呈される。実際、ある研究では「グランドファザリングの利点は計算が単純な点であるが、不公平であり、過去排出量の多い企業ほど配分を多く受け取る」ことが課題として指摘されている。日本のGX-ETS設計でも、こうした批判を踏まえベンチマーク導入を決めた経緯がある。公平性の観点からは、ベンチマーク方式は長期的な産業競争力を重視しつつ効率的な企業を優遇する点でメリットが大きいものの、初期設定をどう行うかによっては企業間に不均衡を生むリスクもあるため、慎重な制度設計が求められる。
6. 過渡期措置としての活用
ベンチマーク方式は、導入当初から本格稼働させるのが難しい場合、段階的な適用を通じて過渡期措置とすることも可能である。例えば韓国(K-ETS)では、当初は全ての業種にベンチマークが整備できないため、一部業種にのみベンチマークを設定し、残る業種はグランドファザリングで配分しつつ徐々にベンチマークへ移行する計画とした。日本でも第1フェーズではGXリーグの自主枠で試行した後、第2フェーズ以降に本格導入となることから、高排出分野以外では当面の間グランドファザリング的な削減率乗算方式で過渡的に配分枠を割り当てる見通しである。
過渡的強化施策
一方、技術的に成熟している分野では制度設計初期からベンチマーク方式を適用し、段階的に強化していくアプローチが考えられる。過渡期措置としては、例えば初年度のみ緩やかな削減率を設定したり、ベンチマーク値を当面維持したりする方法がある。実際、EU-ETSでは2021-25年期のベンチマーク改定で値を最大で24%引き下げたが(年率換算1.6%相当)、今後はさらに厳しい年率2.5%へ上積み予定であるなど、段階的な引き締めが進められている。つまり、ベンチマーク方式自体がフェーズごとに強化される「過渡的強化施策」として活用される例がある。
7. グランドファザリング方式の制度的役割
グランドファザリング方式とは、企業の過去実績排出量に一定の削減率を乗じて排出枠配分量を決定する方法である。例えば、直近数年間の平均排出量を基準として、任意に設定した削減割合(例:過去実績の95%など)を掛け合わせることで各企業の配分枠を算出する仕組みだ。日本のGX-ETS設計では、多排出分野以外の事業者については2023~25年度平均排出量に削減率を乗じて配分を決定するとされており、ベンチマーク方式を適用しない部門で用いる方式として位置付けられている。
EU-ETS
歴史的に見ると、EU-ETSの第1期・第2期(2005~2012年)など多くの排出量取引制度ではこの方式が広く使われてきた。韓国ETS(K-ETS)の初期段階でも、多くの産業セクターはこのグランドファザリング方式で排出枠を割り当てていた。そのため、実質的には「昔の排出量をベースに暫定的に配分する方法」として理解され、国が配分ルールを速やかに導入する手段として機能している。
8. 利点
グランドファザリング方式の最大の利点は「簡便さ」である。企業ごとの配分枠を計算するのに専門的なベンチマークの設定や複雑な手続きが不要で、過去の排出実績データさえあれば単純な算術で割当量を求められるため、制度立ち上げの初期段階で扱いやすい。前述のMDPI研究でも「自社排出実績に基づく配分なので計算が容易だ」という評価がされており、データ整備が追いつかない段階では有力な代替手段となる。また、初年度から過去実績の高い企業に多く配分が与えられるため、産業全体の突然の負担増を抑えるという実務的配慮としても用いられてきた。例えば、J-クレジット(国内排出削減クレジット)の利用を含め、当初は既存企業に多めに配分し、市場価格が安定するまで調整的に導入する方法が各国で検討されているケースもある。
9. 課題
しかしながら、グランドファザリング方式には深刻な課題も伴う。最大の問題点は公平性の低さである。MDPI研究によると「過去実績が多い企業ほど割当量も多くなるため、不公平になる」という欠点があると指摘されている。すなわち、これまで多く排出してきた企業が過去実績に応じて大量の枠を無償配分され、結果的に「高排出企業への肩入れ」になる恐れがある。この仕組みでは、歴史的に効率化に努力した企業や新規参入企業は相対的に配分が少なくなるため、排出削減競争を阻害するという批判が強い。特に新規参入企業は過去実績が無いため初期配分がゼロとなり、他社から枠を買うか製造拡大の際に不利益を被る可能性が高い。一部の参加者は「排出削減の取り組みを始める前に意図的に低減を留保し、より多くの配分枠を得ようとする行動が見られかねない」と懸念も示している。
制度移行や将来計画との整合性
配分が過去実績に固定される性質上、企業が経済構造の変化に応じて自発的に規模を縮小しても、配分枠がそれに伴って柔軟に減少しない。このため、たとえ需要減で排出量が減っても依然として多めの枠を保有し続ける「アロットメント過剰」の問題が生じやすい。結果として削減インセンティブが薄れることも指摘されている。逆に事業拡大を目指す企業は、新設備による増産分については追加の無償枠が与えられないため、その分費用負担が増加し、投資判断に制約がかかる場合がある。要するに、制度設計において企業の動態変化を適切に反映しづらい点が課題と言える。
10. 企業への影響
グランドファザリング方式が適用される場合、過去に多く排出してきた企業が有利に扱われる結果になる。高い排出実績を持つ大手企業は、過去実績に基づいて多めの排出枠を無償で受け取りやすく、その分市場で枠を買い足す必要が減る。一方で、省エネ努力を進めている企業や業界平均以下の排出量である企業は、配分は過去と同水準に留まるため、余剰排出権を市場に売却する機会が減る。
新規参入企業へのハードル
さらに、新規参入企業の場合、配分枠がまったく与えられない可能性が高いため、スタートアップ企業や新分野参入には厳しい環境となり得る。例えば、鉱工業の新規プラントは現状では過去実績がないため、配分を得るには既存企業から購入するしかなく、競争力の観点で不利になる。実際EU初期においても、新規企業用の配分枠を予め留保していなかった国では、先着順で枠が埋まると新規参入者は二次市場で高値購入を強いられるケースが散見された。このため、制度設計者は新規参入者向けの調整や留保枠の設定などで不公正を緩和する必要がある。
11. 制度設計における公平性
制度設計上、公平性の観点からはグランドファザリングの特徴を十分に理解しておく必要がある。上述の通り、この方式は歴史実績の大小がそのまま配分差につながるため、過去に多く排出した企業に大きな配慮がなされる。MDPI論文が指摘するように「歴史的実績が多い企業ほど多くの配分を得るため、不公平だ」という批判は的を射ており、産業構造改革や再編を前提とした長期戦略とは相容れない場面もある。反対に、過去実績が少ない効率的企業は正当に評価されず、逆に配分不足で負担が増える可能性が高い。この点、国際的な枠組みからも懸念が指摘されており、徐々にベンチマーク方式へ移行する動きが加速している。
公平性の捉え方
例えば、電力事業者への配分では歴史実績型に加え電力市場の特性を考慮した特別ルールが必要となる場合があるし、航空など新興の規制対象については独自の配分設計が求められる。GX-ETSでも第3フェーズ以降に発電部門の有料化が予定されており、グランドファザリングで割り当てた枠の取り扱いも政策的に検討される。総じて、グランドファザリング方式は始めやすい反面、制度成熟に向けて公平性を補完する策(例:レポートや留保枠の設定、追加割当)を講じない限り、企業間で不満が生じるリスクが大きいと言える。
12. 過渡期措置としての活用
歴史実績ベースのグランドファザリングは、EU-ETSや韓国ETSなどで制度開始期の過渡的措置として採用された経緯がある。EU-ETSでは第1期(2005~07年)では施設別に過去排出量を基に配分し(各国のNAP)、第2期も類似の方法が取られていたが、その後段階的にベンチマークやオークションへ移行していった。韓国でも施行初期は多くをグランドファザリングで配分し、技術的成熟とともにベンチマーク方式を導入している。日本のGX-ETSにおいても、高排出業種へのベンチマーク配分が始まるまでの間、その他業種はまず歴史実績型で暫定配分する予定とされている。これは「まず既存企業に枠を割り当て、制度開始後の事業環境変化に備える」意味合いがある。
ハイブリッドアプローチ
また、こうした方式の移行策として、例えば配分量に段階的な削減率を設定する、一定期間までは上限価格を抑えるなどの手法も取られることがある。ベンチマーク方式への完全移行が時間を要する場合、当面はグランドファザリングとベンチマーク併用のハイブリッドなアプローチで公平性を担保するケースも見られる。いずれにせよ、GX-ETSでもフェーズごとの強化を考慮し、まずは歴史実績ベースで制度を稼働させつつ、次第にベンチマークへの本格移行を図る運用が想定されている。過渡期措置としてグランドファザリングを用いつつ、計画的にベンチマーク化することで企業負担の急変動を抑えつつ、最終的には効率的な配分制度に移行する道筋が議論されている。
