気候関連情報開示ではTCFDからISSB(IFRS S2)への移行が進みましたが、自然関連情報開示においても同様の主役交代が起きようとしています。民間主導のTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)が策定したフレームワークを、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)が正式基準に取り込む方針を示し、2026年までのロードマップが動き出しました。本記事ではISSBとTNFDそれぞれの動向を整理し、今後の自然関連開示の行方について解説します。


1.自然関連開示の現状
TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)は、気候分野のTCFDに倣って2021年に発足した国際イニシアチブで、企業の自然(生物多様性・生態系)関連リスクと機会に関する開示フレームワークを策定しました。TNFDは2023年9月に最終的な提言となる「TNFDフレームワーク」を公表し、生態系への依存度や影響度の評価プロセス(LEAPアプローチ)や各種推奨開示項目を提示しています。これは企業が自主的に活用できるガイドラインであり、気候におけるTCFD提言の「自然版」と位置付けられます。
TNFDの特徴は、生物多様性・森林・水資源など自然全般を網羅しつつ、企業のリスク管理や戦略策定に役立つ枠組みを提供している点です。具体的には、企業が自らのバリューチェーン上で影響を及ぼす/受ける自然資本を特定し(Locate)、影響・依存関係を評価し(Evaluate)、リスク・機会を評価して(Assess)、対応策を練る(Prepare)という一連のLEAPステップを推奨しています。また、KPI候補として生物多様性の減少率や自然への投資額など多数の指標を例示しています。
TNFDの拡大
このTNFDフレームワークは任意ベースではありますが、企業や金融機関による自主的な採用が急速に拡大しています。2025年11月時点で、世界56か国・地域の733組織がTNFD提言の活用を表明し、その内訳には上場企業や金融機関が含まれます。これは1年前からそれぞれ40%以上増加した数字であり、企業の間で自然関連リスクへの関心と開示意欲が高まっている証左です。採用企業には、サノフィ、タタ・スチール、ピレリといった海外大手だけでなく、日本企業では日本製鉄や住友林業なども名を連ねています。以上のように、現在はTNFDという民間主導の枠組みが自然関連開示のデファクトスタンダードとして台頭しつつあります。しかし一方で、各国でこれを公式基準に組み込む動きはまだ始まったばかりでした。その状況が、2025年末に大きく転換しようとしています。
2.ISSBによる自然関連開示基準の策定へ
2023年6月に気候関連のIFRS S2基準を発行したISSBは、次なるテーマとして自然関連分野に焦点を当てました。ISSBは2025年11月7日、公式に「自然関連のリスク・機会に関する開示基準の策定作業に着手する」方針を表明しました。注目すべきは、その際ISSBがTNFDの枠組みを参照しつつ基準開発を進めると明言したことです。これは実質的に、TNFDの成果をISSBという公的基準に取り込むことを意味します。
ロードマップ
ISSBの計画によれば、まず既存のIFRS S1およびIFRS S2では網羅されていない自然関連情報の開示要件を追加策定する作業に入ります。この作業の具体的アプローチは今後数ヶ月で決定するとしています。いずれにせよ、ISSBは2026年10月開催予定の生物多様性条約COP17までに公開草案をまとめることを目標に掲げています。このタイムラインは野心的ですが、各国政府や市場関係者の関心がCOP17に向け高まる中でドラフトを提示し、意見募集を経て2027年前後には最終基準を公表したい考えと見られます。
非サイロ型アプローチ
ISSBが基準策定にあたり重視すると述べているのが「非サイロ型アプローチ」です。これは気候・水・土地などを縦割りにせず、自然全体を統合的に扱うという考え方で、まさにTNFDが採用するアプローチと一致します。ISSBはTNFDの推奨事項や指標セットを参考にしつつ、投資家ニーズに応える開示を設計するとしています。また、ISSB基準が公的なデュー・プロセスを経て策定される以上、各国規制当局は将来的にこの自然関連基準を企業開示の義務的枠組みとして採用する可能性が高いです。事実、ISSBの既存基準S1/S2は欧州や日本など約40の法域で既に参照・採用が進んでいます。自然関連基準も発行されれば、同様に世界基準として各国で位置付けられていくでしょう。
3.TNFDとISSBの役割変化
ISSBが自然関連基準策定に本格着手する方針を示したことを受け、TNFD側も自らの役割見直しに動きました。2025年11月7日、TNFDは「現在進めている技術作業を2026年第3四半期までに完了し、その後の新規ガイダンス策定を一時停止する」決定を発表し、ISSBはこの決定を歓迎する声明を出しました。平たく言えば、TNFDは2026年までに自身のフレームワーク開発を一段落させ、以降はISSBの基準策定をサポートする方向に舵を切ったのです。これは民間主導から公的基準への主役交代を象徴する動きと言えます。
TNFDとISSBの強調体制
TNFD自身も声明の中で、ISSBがCOP17(2026年)までに自然関連基準のドラフトを用意する計画を歓迎するとともに、ISSBがTNFD枠組みがIFRS S1の基本的考え方に沿っていると確認したことで「企業がIFRS S1に沿った開示準備を進めやすくなる」と言及しています。このように、TNFDは自らの成果がISSB公式基準に引き継がれることを前向きに捉え、以降はISSBへの知見提供や各国企業の能力醸成支援に注力する方針です。具体的には、2026年Q3までにセクター別ガイダンス等の開発中プロジェクトを完遂し、その後新たな指標開発などは行わず、一時停止するとしています。代わりに、市場に対しては自然関連課題の理解促進や自然データバリューチェーンの改善提言の普及といった活動を続ける計画です。
要するに「標準設定はISSB、啓発と支援はTNFD」という役割分担が形成されつつあります。TCFDからISSBへの流れと同様に、TNFDは将来のISSB自然基準の礎を築いた後、その技術的知見を提供し裏方に回る形です。主役が交代することで、企業側にとっては複数の枠組みに対応する負担が軽減されるメリットがあります。最終的にISSB基準に一本化されれば、各国の規制も一本化され、グローバル企業が国毎に異なる自然関連報告基準に悩まされることも減るでしょう。もっとも、TNFDが提唱したきめ細かな指標群や先進的な概念がどこまでISSB基準に反映されるかは今後の協議次第です。投資家からは「TCFD→IFRS S2」への移行時と同様、野心水準が引き下がらないか懸念する声もあります。ISSBは各方面との連携を図りつつ、透明性の高い基準開発プロセスを進めることが求められます。
4.2026年までのロードマップと企業への影響
現在示されているロードマップをまとめると、2024~2025年にかけてISSBが自然関連基準の検討・準備を進め、2026年末に公開草案を発表、ステークホルダーからの意見募集を経て2027年以降に最終基準を公表する流れとなります。一方、TNFDは2026年Q3まで自身のドキュメント拡充を行った後、新規開発を止めISSB支援に回る見通しです。したがって2024~2025年はある種の移行期間となり、企業は引き続きTNFDフレームワークを活用しつつ、ISSBの動向を注視することになります。
企業でのTNFD対応
企業のサステナビリティ担当者にとって、この期間に取るべき対応は主に二つあります。第一に、TNFDの推奨事項に沿った自然関連リスク・機会の把握と情報開示の試行です。ISSB基準が出るまで待つのではなく、既に存在するTNFDガイダンスを用いて自社の自然資本への影響評価やKPI測定を開始することが重要です。例えば、自社事業が生態系に及ぼす潜在的インパクトを定性定量評価し、統合報告書等でその取り組みを開示する企業も増えています。トップ企業の間では、TCFD報告に自然関連情報を追加する形で開示を始める例も出てきました。これらは任意開示とはいえ、投資家やNGOからの評価が高まる傾向にあります。
企業でのISSB対応
第二に、ISSB新基準への備えです。ISSBが公開草案を出せば、日本の金融庁や環境省なども内容を分析し対応を検討するでしょう。日本企業としては、草案段階で内容をチェックし意見を提出することも可能ですし、最終基準が出る前に予行演習として自社の自然関連情報を整理しておくことが肝要です。具体的には、生物多様性に関する自社の重要KPIを特定し、そのデータ収集ルートを構築しておくこと、関連部署と連携してリスク評価プロセスを準備しておくこと等が挙げられます。幸い、TNFDのLEAPアプローチはこの準備に大いに役立ちます。自社でLEAPを一巡してみることで、どの部分の情報が不足しているか、社内体制のどこにギャップがあるかが見えてくるでしょう。
5.ISSB×TNFDまとめ
最後に展望を述べれば、自然関連開示の「主役交代」は単なる基準機関の入れ替わり以上の意味を持ちます。それは、サステナビリティ情報開示が成熟し、ボランタリーからレギュラトリーへ段階が移ることを示しています。TCFDがそうであったように、優れた自主的枠組みは公的基準に昇華し市場全体に義務化されていきます。自然関連も同様の道を辿るなら、遅くとも数年以内には各国で生物多様性情報の開示がルール化されるでしょう。企業としては、「まだ任意だから対応は後回し」と考えるのではなく、先んじて体制整備に着手することが競争優位につながります。自然は気候以上に企業活動との関連を把握しにくいテーマではありますが、TNFDやISSBのガイドを活用しながら、自社にとっての重要な自然課題を見極め、戦略に組み込んでいく姿勢が求められます。
サステナビリティ推進担当者は、気候だけでなく「自然」という次のフロンティアに目を向け、このロードマップを自社の持続可能性戦略強化の好機と捉えてください。主役が交代し基準が整う2026年以降、自然関連開示は企業の信頼性評価において不可欠な要素となっていることでしょう。そのとき慌てずに済むよう、今から着々と準備を進めていきましょう。引用先
ISSB welcomes TNFD’s support as it advances nature-related disclosures
https://www.ifrs.org/news-and-events/news/2025/11/issb-welcomes-tnfd-support-nature-related-disclosure/


